カッコよく文学を語る

文学に限らずカッコよく語ることはとても楽しい

この記事は、まだ本を読んでいない人に対して、その本の内容をカッコよく語っているという設定です。 一方通行に語りかける形式で書いているので、この文章のまま、あなたも、お友達、後輩、恋人に語っることが出来ます。 ぜひ文学をダシにしてカッコよく生きてください。

『金閣寺』三島由紀夫〜「テーマは美意識なんだよね」と、一発かます〜

 

金閣寺三島由紀夫

 

三島由紀夫の作品を語る上でのポイント

①「三島」と呼ぶ

②文章が力強いと言う

③生き方がすごいと感心する

の3点です。

 

①に関して、通の人がモノの名称を省略するのはどの分野でも適用されます。文学でもしかり。「三島」と呼び捨てで語ることで、文学青年感1割り増しです。

②に関しては、本当に力強いです。見たままを素直に言ったまでです。

③に関しては、三島由紀夫は天才で、まるで武士のように生きながらも「死に様」を常に考えていた人間です。文豪と呼ばれる多くの天才小説家と同じように彼も自殺をします。

 

以下会話例

「まだ20時だね。どうしよう、もう少しだけ飲んで2軒目行くか。同じのでいい?すみません、獺祭一合お願いします。

 

え?あ〜そうだな、、じゃあ、三島由紀夫って知ってる?あ、そうそう。その人が書いた金閣寺って知ってる?そうかそうか。読んではない?なるほどね。

三島の文章はめちゃくちゃ力強くて読んでると疲れるんだよね。三島は、ノーベル文学賞の候補にもなってるから日本だけじゃなくて世界的に有名なんだよ。その中でも三島の代表作になるのが金閣寺なんだけどね、金閣寺はね、テーマは美意識なんだよ。そう美意識。

これはね、金閣寺炎上っていう事件知ってる?金閣寺って一回燃やされてるんだよ。そうなの、1950年かな確か。それを題材に、どうして若者は、どんな心理状態で、どんな考えを持って金閣寺を燃やしたのかっていうのを語ったものなんだよ。

 

ありがとうございます。ああ気使わなくて大丈夫。手酌でいきます。

 

この話はね、貧しいお寺で育った少年が主人公でね、その主人公は幼い時から僧侶であるお父さんから「金閣寺は美しい。この世で一番美しいものは金閣寺だ。」と言われて育てられたんだ。だから主人公も「金閣寺は美しい」とずっと思って生活していたんだよね。例えば、お花を見たら「金閣寺みたいに綺麗だな」とか、夕日を見たら「金閣寺のように美しいな」みたいな感じ。いわば金閣寺は美のイデアだと思ってたんだよね。

そんなある日、主人公、名前は溝口って言うんだけど、溝口は金閣寺にお坊さんとして修行生活をしに行くことになったんだよ。とうとう、幼少期から心の中にあった美の究極体である金閣寺をこの目で見るときがやってくる。溝口は胸を高鳴らせ、金閣寺をその目で見ると、なんと、全然美しくないんですよ!自分の心の中にある金閣寺の方が美しい。この金閣寺が美しくないとおかしい、だけど、現実の金閣寺はどうもつまらない。こんなところからお話は始まるんだよね。

 

溝口は悩むんだよ。現実の金閣寺、イメージの金閣寺、どっちが本当の「美」なのか。この葛藤がこの本の主題。美意識。美とは何か。

これは僕らの生活でも経験あるよね。例えば、海に行くのすごい楽しみにしててウキウキして想像して、実際に海を見るとそこまで綺麗じゃなかったり、ええ、有名だからとりあえず来てみたけど、マーライオンこんなもんなの?みたいな感じ。肩透かし食らった感じ。まあマーライオンは別かもしれないけど。想像してたものより現実の方がつまらなかった経験たくさんあると思うんだけど、それをもっと高尚に扱っているのがこの金閣寺なんだよね。イメージと現実どちらが本当の美なのか。

 

それでね、そんなつまらない金閣寺でもある瞬間ものすごく美しく見える時が2回あったんだ。

それはね、1回は音楽が流れている時。溝口の友達に尺八を吹く人がいるんだけど、その尺八の演奏が流れている時、金閣寺は物凄く美しく見えるの。これどう言う意味かわかる?例えばテレビでも映画でも、音楽が流れるだけで何気ないシーンが感動するものになったり印象深くなったりするでしょ。BGMとしての音楽。そう言う意味ではないんだよ。うん、ここではそう言う意味ではないの。ここで三島が言ってるのはね、音楽が流れると、金閣寺が移ろいゆくものになる、だから美しく見えるって、そう言ってる。つまりね、金閣寺って何百年もそこにあり続けた不滅のものでしょ。永久不滅。変化しない。一方音楽はさ、絶えず消えていくものでしょ。旋律は確かにあるんだけど、常に変化して流れている。形がなくて移ろい行くもの。ずっと昔からあって、そして今後も未来永劫そこにあり続ける不滅の金閣寺に、音楽が加わると、そこに時間が流れる。時間を意識する。無限の金閣寺に音楽が足されると有限になる。そうすると金閣寺は移ろい行くものに見えるんだよね。だから美しく感じる。そういうことを三島由紀夫は言いたいわけだ。めちゃくちゃ頭がいいでしょ。

 

それともう1回がね、これは戦争が始まった時。太平洋戦争のことね。戦争が始まると、皆明日は果たして生きているのか、命の心配をするわけだけど、そこにあるのが普通だった金閣寺も同じように明日あるかわからない存在になるんだよね。三島は、金閣寺は時間の海を渡ってきた船のようである、って表現してるんだけど、そのずっとあり続けた金閣寺が、空爆で木っ端微塵に吹き飛んでしまうかもしれない。永久にあり続けると思ってた金閣寺が急に危うい存在になる。そうなると、また輝きだすんだよね。これはなんとなくわかるよね。もののあはれだよね。

 

そしてまた同じ戦争から絶望もするんだよ。戦争が終わって日本が負けると、あたりは焼け野原になっていた。人もたくさん死んだ。だけど金閣寺はとうとう空襲に焼かれずに残った。これからも超然とそこにあり続けるだろう、っていう事実が溝口を絶望させたんだよね。もう移ろい行くものではなくなってしまったから。現実のものになってしまったんだよね。

 

まあ話はそこからも続いていって、いろんな出来事があるんだけど、今回は省いちゃうね。でもテーマは一貫して美意識。イメージと現実どちらが本物の美なのか。これはね、この小説の中で明確に答えてはいないんだけど、僕の解釈では三島はイメージの美を選んだんだと思うんだ。というのもね、最終的に溝口は金閣寺を燃やすに至る。燃え盛る金閣寺を山の上から見て、タバコに火をつけて一服する。そして「これからも生きていこう」と心に決める。これで話は終わり。

 

これ最後どう言う意味なのかは難しいんだけどね、僕は、現実と別れを告げてイメージと共に生きていくことにしたっていう意味なんだと思うんだよね。でも「これから生きていこう」っていってるんでしょ。現実を選んだんじゃないの?って思うでしょ。

これはね三島本人の死生観にも繋がるんだけどね、三島はエッセイとかインタビューとかでも語ってるんだけど、「男は45歳、女は35歳まで」っていってるんだ。そこまでしか生きちゃいけないって。三島は自分が天才なのを知っていて、究極の死に方をいつも自問してた。「どう生きるかはどう死ぬか」っていうことだよね。死に様を考えてた。三島は30代になってからボディビルを始めて筋肉をつけていったんだけど、この理由はいわばかっこいい死に様を見せるためなんだよね。これは自分で語ってるんだけど、「自分は若くして死ぬことを夢みてたけど、体に贅肉がついてたりガリガリだったら体裁が整わない。」って。筋肉をつけて美しい体にしないと死ねないっていうこと。そして知ってるかは分からないけど、三島は市ヶ谷の自衛隊駐屯地で割腹自殺をするんだ。45歳の時に。

 

溝口にとっての金閣寺は、現実で美しいとされている普遍的なものだから、そのイメージがより究極な”美”になった。そして三島自身も、現実世界、生きている時に数々の作品や言葉を残し、肉体までも美しいものにしたから、その”イメージ”に魅かれ、死後多くの人が彼のことを研究し愛読している。現に今僕はここで、現実ではあったことのない三島をイメージだけで語ってる。イメージをより究極な美にするために、現実を強く、美しく生きる。そういう生き方を三島はしていたんじゃないかなって思うんだ。

 

あ、もうなくなったかな。よしじゃあ二軒目いくか。すみません、お会計お願いします。」