カッコよく文学を語る

文学に限らずカッコよく語ることはとても楽しい

この記事は、まだ本を読んでいない人に対して、その本の内容をカッコよく語っているという設定です。 一方通行に語りかける形式で書いているので、この文章のまま、あなたも、お友達、後輩、恋人に語っることが出来ます。 ぜひ文学をダシにしてカッコよく生きてください。

『風の歌を聴け』村上春樹 〜「僕は最近の長編より若い頃の短編の方が好きなんだ」と、分かってる感〜

風の歌を聴け村上春樹

 

村上春樹の作品を語る上でのポイント

①「春樹」と呼ぶ

②最近の長編作品を批判する

③自分を主人公へ寄せる

の3点です。

 

①に関して、通の人がモノの名称を省略するのはどの分野でも適用されます。文学でもしかり。「春樹」と呼び捨てで語ることで、文学青年感1割り増しです。

②に関して、村上作品は前期が短編、後期が長編が多くなっているのだが、いわゆるハルキストの中には、一定数短編至上主義者が存在する。そこに乗じるとかっこいい。

③作品に共通して、主人公は「聡明でお洒落で達観しててどこか憂鬱で、女にモテる」という特徴を持っています。その主人公に自分がどことなく似ていると認めさせることで、かっこいい人間であることと同義になります。

 

以下会話例

「あ、久しぶり、うん全然大丈夫。あ、これ?これはね村上春樹の『風の歌を聴け』。読んだことある?あ、そうだよね、でも村上春樹は知ってるよね?ああよかった。そうその春樹の処女作なんだけどね、これは彼が29歳の時に書いた小説で主人公のも29歳なんだ。そういえば、とりあえず飲み物頼むか。君は?分かった。すみません、ビールとジントニックください。

 

春樹の小説って長編ばっかりなんだけど、僕は昔書いてた短編の方が好きなんだよね。言葉数すくなく最低限の説明しかせずに読者に読みっとてもらう感じ。春樹の短編は俳句に近い洗練さがあるんだよね。そこが凄くいいんだよ。

 

あ、ありがとうございます。じゃあ乾杯。

 

それでね、ストーリーはね、主人公が大学生の夏に帰省して、鼠っていう名前の友人とビール飲んで色々巡っていく感じなんだけど、これを順を追って話すのは難しいんだよ。というのも、短い文章が乱雑に散らばってる感じなの。主人公が女の子とデートしてたら、いきなりラジオの音声が流れてきて、幼少期の話になってくみたいに。普通の小説がABCDEって展開されていってるとしたら、EBACDみたいな感じ。グラデーションになっていないんだよね。あまり小説を読んだことない人にとっては、初めての経験ですごいびっくりすると思う。ポプテピピック見たことある?あそこまでわけわからなくはないけど、近いものを感じるかもしれない。そのくらい散らばってる。

 

でも、文学者とかハルキストからしたら、あれは計算されて秩序だって並べられているらしいんだけどね。僕の今の読解力では散らばってるようにしか感じられない。でも、僕が春樹の小説で感じ取りたいものって、主人公とか舞台の雰囲気なんだよね。音楽聴くとウキウキしたり、楽しげな気持ちになったりするよね。でも別に旋律とか音階をしっかり分析して、イ長調だからどうとか、メッゾフォルテが、とかいちいち気にしないよね?それと一緒で、僕はこの小説に音楽に近い楽しみ方をしてるんだと思う。目で読む音楽。

 

まあ何が言いたいかっていうとね、とにかくこの小説はかっこいいの。どこを取ってもかっこいい。パラパラって適当にめくってそこにある一説よむと、もうかっこいい。メンズファッジみたいな感じ。そのかっこよさを知ってほしい。そしてぜひ読んでほしい。難解な解釈とかは文学好きにやらせておけばよくて、帰り道に音楽聴く感覚でライトに楽しんでほしい。

 

どこがかっこいいかっていうとね、例えば「完璧な文章な文章などといったものは存在しない。完璧な絶望が存在しないようにね。」って言葉からこの小説は始まるの。もうかっこよすぎるでしょ。まあ本当はね世に出てる解釈とか読むと、いろいろと解釈とか本当の意味があるらしいんだけど、僕にとってはそんなのどうでもよくて、もうただ目の前のかっこいい人に惚れ惚れしてる感じ。

 

他にもね、これは小説の中ではなくて、前書きとして「僕は文章についての多くをデレク・ハートフィールドに学んだ」って言ってるの。このデレクハートフィールドっていう人は、銃と猫とお母さんの作ったクッキーが好きで、書く文章は読みづらくて出鱈目で稚拙だったんだけど、ヘミングウェイと同年代で言葉を武器として闘うことのできる数少ない作家だったらしいのよ。日曜日の晴れた朝に右手にヒトラー肖像画抱えて左手に傘をさして、エンパイアステートビルの屋上から飛び降りて蛙のようにペシャンコになって死んだんだって。で、デレクハートフィールドの言葉に、文章を書くという作業は自分と自分を取り巻く事物との距離を確認することだ、とか、宇宙の複雑さに比べればこの世界などミミズの脳味噌のようなものだ、っていうのがあって、この人に影響を受けてるんだって。で、あとがきでも、この本が出版されるにあたって墓に訪れたって書いてあるの。へーって思うでしょ。よくわからないけど。春樹はさ、今じゃ世界で一番有名な小説家っていっても過言ではなくてノーベル賞に毎回名前が上がるほどだから、ファンとか研究者が、デレクハートフィールドの本を読みたいって思うわけだ。で本屋とか図書館で探すんだけど全然見つからないんだって。前書きでも彼の本は絶版になっているって書いてあるから相当貴重なのかなって思うでしょ。でもね、このデレクハートフィールドていう人、実は存在しないんだよ。わけわからないでしょ?村上春樹がでってあげた架空の人なの。ヘミングウェイとかフィッツジェラルドとか実在する小説家に並べてデレクハートフィールドに影響を受けたって書いてあるから誰も架空の人物だとは思わないわけよ。もうかっこよすぎるでしょ。

 

それで、僕がこの小説で一番好きなところはね、主人公の小さい頃を回想してるとこなんだけどね。始まりは、僕は全く言葉を喋らない少年だったので、両親が心配して知り合いの精神科医に連れて行ったっていうところから始まるのね。診療は週に一度日曜日の午後に、アップルパイやパンケーキやドーナッツ、クロワッサンを食べてジュースを飲みながら進んでいくの。医者は、文明は伝達だよって教えてくれる。伝達しないとそれは存在しないと一緒、例えば君はお腹が空いていて、このクッキーを食べたい、もし君がクッキーが欲しいと言ったらクッキーを食べられる。でも君は何も言いたくない。そしたらクッキーはもらえない。そこで文明は途切れちゃうって言われる。そして、主人公は14歳になった春のある日、14年間のブランクを埋め合わせるかのように、堰を切ったように3ヶ月かけてしゃべりまくったの。そして、四十度の熱を出して3日3晩寝込み、起きた時には無口でもおしゃべりでもない平凡な人間になっていたっていうシーンなの。

この空気感がなんとも言えないんだけど、不思議で好きなんだよね。ティムバートンの映画のワンシーン見てるみたいな。

 

この本は自分の指針にもできると思うんだ。例えば君は映画が好きだよね?ラブストーリーの映画を失恋した直後に観るのと、恋人とラブラブの時に観るのでは感じ方が違うよね?そして、10年前に観た時と今観た時と10年後観た時では感じ方が変わってくるよね。「風の歌を聴け」は自分の小説を読む力を測ってくれると思うんだよね。昔読んだときはさっぱりだったけど、今はここまで理解できる。そして5年後読んだ時にはもっと理解できる、あるいは違った理解ができるみたいな感じでね。もちろん湊かなえとか東野圭吾とかも凄く面白いし否定はしないんだけど、文学っていうものはやっぱり大学の学問になるまで昇華されている存在だから、ちょっとくらい難しいくらいが面白いって僕は思ってる。中には難解過ぎて手がつけられないモノも存在するけど、こと『風の歌を聴け』に関してはちょうどいいところに位置してると思うんだよね。30年とか年月かければ分かってくるのかな?って。なんども磨かれた革靴みたいにね。

 

もう一杯飲むか。すみません。ジントニック下さい。」